西暦1800年代の偉人

【河井 継之助】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:青木孝文 Aoki Takafumi のブログ『おもしろき こともなき世を おもしろく』

今回は有名な「河井 継之助」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「河井 継之助」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

河井 継之助とは

河井 継之助(かわい つぎのすけ、文政10年1月1日(1827年1月27日) - 慶応4年8月16日(1868年10月1日))は、江戸時代末期(幕末)の武士。越後長岡藩牧野家の家臣。「継之助」は幼名・通称で、読みは郷里の新潟県長岡市にある河井継之助記念館は「つぎのすけ」とするが、死没地である福島県只見町の同名施設は「つぐのすけ」としている。

戊辰戦争の一部をなす北越戦争で長岡藩側を主導したことで知られる。物事の本質を素早く見抜く才にすぐれ、徳川幕府の崩壊を早くから予見していた。遊郭の禁止令を施行した際はそれまで遊郭の常連であった継之助のことを揶揄し「かわいかわい(河井)と今朝まで思い 今は愛想もつきのすけ(継之助)」と詠われている。また、『塵壷』という名前で知られる旅日記を残した。

参考:Wikipedia

河井 継之助の名言集

とかく学問を職業のように致し候者多く、才徳兼ね候実学の人少なきように存ぜられ候

一時点にかぎっていえば物事はにっちもさっちもゆかぬように見える場合でも,時が経てば世の中のことは徐々にかわり、やがて事態がまったくちがってしまう。どうにもならぬときは、いそがぬことだ。

眼を開け、耳を開かなければ、何事も行はれぬ。

ほめそやさるるは仇なり。悪(にく)みこなさるるは師匠なり

二度や三度は水っ溜りの中位へは放り込まれるかも知れないが、己を殺す程の気概のある奴は一匹も無い

武士の体面などはおのれの心のうちのものだから、武士らしく大度な気持ちで許してやれ。

女子にも辛苦艱難を遂げ、名を残し候ものも、昔より数々これあり

世間には「資治通鑑」を三カ月で読んだとか、「二十一史」を半年に読んだなどと自慢する者があるが、そんな者の気が知れない。会心の文字は、何度でも読むのがいい。

心を直に悟るなら、現在未来の仕合せあり、子々孫々にも栄ゆべし。

サウ(そう)、人が高い処(ところ)といふならば、己は一番、低い所を取って見せようか

女房などは可哀想なものだ。何処へ行くというものだから、ナニ信濃川を上がれば江戸に来られるというておくとそれで安心しておるが、可哀想なものだ

志ほど世にとけやすく、壊れやすいものはない。

一年も居馴れてしまえば、ちょうど冬の寝床のように自分の体温のぬくもりが江戸という寝床に伝わってしまう。そうなれば住みやすくはあるが、物を考えなくなる。寝床は冷ややかなほうがいい

地下百尺底(てい)の心をもって、ことに当たる

武士の対面を保つにはどうしたら宜しかろう

八十里 こし抜け武士の越す峠

一忍をもって百勇を支え、一静を以て百動を制す。

漫然多読するも、何の易かあらん。読書の功は細心精読するに在り

立身行道は孝の終わりと申す教えにても相守りたく

出るとき進むときは人の助けが要るが、おるとき退くときは己の力のみである。自ら決せよ。

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