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【明智 光秀】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:日本経済新聞

今回は有名な「明智 光秀」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「明智 光秀」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

明智 光秀とは

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。
美濃国の明智氏の支流の人物。一般に美濃の明智荘の明智城の出身と言われているが、他の説もある。
最初は、土岐氏に代わって美濃の国主となった斎藤道三に仕えた。道三と義龍の親子の争い(長良川の戦い)の結果、浪人となり、越前国の一乗谷に本拠を持つ朝倉義景を頼り、長崎称念寺の門前に十年ほど暮らし、このころに医学の知識を身に付ける。その後、足利義昭に仕え、さらに織田信長に仕えるようになった。
元亀2年(1571年)の比叡山焼き討ちへ貢献し、坂本城の城主となる。天正元年(1573年)の一乗谷攻略や丹波攻略にも貢献した。
天正10年(1582年)、京都の本能寺で織田信長を討ち、その息子信忠も二条新御所で自刃に追いやった(本能寺の変)が、自らも織田信孝・羽柴秀吉らに敗れて討ち取られた(山崎の戦い)。

参考:Wikipedia

明智 光秀の名言集

仏のうそは方便という。武士のうそは武略という。土民百姓はかわゆきことなり。

時(土岐)は今雨が下しる(天が下知る)五月哉

瓦礫のように落ちぶれ果てていた自分を召しだしそのうえ莫大な人数を預けられた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。

心しらぬ人は何とも言はばいへ身をも惜まじ名をも惜まじ

敵は本能寺にあり

順逆二門に無し大道心源に徹す五十五年の夢覚め来れば一元に帰す

自分は他の誰でもない煕子殿を妻にと決めている。

たとえ天下をとったとしても、妾(側室)は持たぬ

光秀こと、近年、信長にたいし、いきどほりをいだき、遺恨(いこん、いつまでも残る恨み)もだしがたく候。今月二日、本能寺において、信長父子を誅し(ちゅうし、殺すこと)、素懐(そかい、かねてからの願い)を達し候。

いざ、お前を50日のうちに輿(こし、身分の高い人が乗る乗り物)に乗せる身分にしてみせる

鳴かぬなら 私が泣こう ホトトギス』『鳴かぬなら 放してしまえ ホトトギス

わしは千人の頭になることくらいで終わるつもりはない。もっと大きくなる

あの人物は俺の重臣だが、昔父の領内で農夫をしていた。それを父が登用してまず足軽にした。おそらく、あの時の恩を忘れず、農民だった初心で父の霊を弔っているのだ。武士はすべてああありたい。笑うお前達は馬鹿だ

自分は石ころのような身分から信長様にお引き立て頂き、過分の御恩を頂いた。一族家臣は子孫に至るまで信長様への御奉公を忘れてはならない。

将来、わしが一国一城の主になった暁には是非城代としてお迎えしたい。貴殿のほうが出世していたら、そなたの家臣になろう。

(大黒天の像には「千人の頭になれる」という話があることを聞いた光秀が像を捨てた理由として)私はその程度で終わるつもりはない

もし宗鑑が儂の望みを聞いておったなら、儂は未だに細川家の家臣であったに違いない。そして織田家に召し抱えられてここまで出世することもなかったであろう。それを思えば宗鑑は儂にとって福の神のようなものだと言えるだろう。

(夜陰に紛れて一揆勢が奇襲をかけてくると踏んで)ゆめゆめ御油断なされませぬように

金ヶ崎城に木藤・明十・池筑その外残し置かれ

仰木の事は、是非ともなでぎりに仕るべく候

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