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【前田 利家】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:中川区

今回は有名な「前田 利家」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「前田 利家」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

前田 利家とは

前田 利家(まえだ としいえ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、戦国大名。加賀藩主前田氏の祖。豊臣政権の五大老の一人。俗に「加賀百万石の祖」とも称されるが、実際に前田家が百万石を超えるのは利長・利常ら利家の息子たちの世代からである。
尾張国海東郡荒子村(現・名古屋市中川区荒子)の荒子城主前田利春の四男。はじめ小姓として14歳のころに織田信長に仕え、青年時代は赤母衣衆として従軍し、槍の名手であったため「槍の又左」の異名を持った。その後柴田勝家の与力として、北陸方面部隊の一員として各地を転戦し、能登一国23万石を拝領し大名となる。
信長が本能寺の変により明智光秀に討たれると、はじめ柴田勝家に付くが、後に羽柴秀吉に臣従した。以後、豊臣家の宿老として秀吉の天下平定事業に従軍し、加賀国・越中国を与えられ加賀藩百万石の礎を築く。また、豊臣政権五大老に列せられ、豊臣秀頼の傅役(後見人を任じられる。秀吉の死後、対立が顕在化する武断派と文治派の争いに仲裁役として働き、覇権奪取のため横行する徳川家康の牽制に尽力するが、秀吉の死の8ヶ月後に病死した。

参考:Wikipedia

前田 利家の名言集

人には出来不出来はあるものにて候。

天下に道有り即ち見、天下に道無し即ち隠、能く謀りし者は未萌を慮る。智者は千慮に必ず一失有り、愚者は千慮に必ず一得有り。

見ぬ世の末の変わりゆく有様をつらつらと思いつくれば胸苦しい。

合戦するとき、(兵力が)一万と三千は、その大将の考えで三千の方がたびたび勝つものである。そのわけは、小勢の方は(勝って生きるか、負けて死ぬか)二つに一つと兵士たちは覚悟しているからである。だから、大軍の大将は油断してはならない。

武門とは信義の番兵であり、人の生涯は心に富を備える為にある。

人間は不遇になった時、はじめて友情のなんたるかを知るものだ。

戦場に出ては、我が思うようにして、人の言うことを聞き入れぬが良し。

ともかく金を持てば、人も世の中もおそろしく思わぬものだ。逆に一文なしになれば、世の中もおそろしいものであす。

まだ一つも首級を挙げてない

自分は道真公の子孫だ

貸した相手に催促はせず、返せないようなら借金をなかったことにするように

合戦の際は、必ず敵の領内に踏み込んで戦うべきだ、わずかでも自分の領国へ踏み込まれてはならない。信長公がそうであった。

落ちぶれているときは平素親しくしている人も声を掛けてくれなくなる。だからこそ、そういう時に声を掛けてくれる者こそ信用できる人間である

先手にいくさ上手な者を一団、二団と配備し、大将は本陣にこだわらず馬を乗り回し、先手に奮戦させて思いのままに兵を動かす

うるさの経帷子(きょうかたびら)など、わしはいらぬ。お前が後から着ればよい

御家騒動はいつも先代の不始末が原因だ、自分の死後、奉行らにあらぬ疑いをかけられては気の毒だ

侍は心を富士山ほどに持って奉公すべきである

秀吉は死ぬ間際まで秀頼様を頼むと言っていたのに、家康はもう勝手なことをしている、儂は家康に約束を守らせるために直談判に行く。話が決裂すれば儂はこの刀で家康を斬る。もし儂が家康に斬られたら、お前が弔い合戦をしろ

わしはこれまで幾多の戦に出て、敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことは無い。だから地獄に落ちるはずが無い。もし地獄へ参ったら先に行った者どもと、閻魔・牛頭馬頭どもを相手にひと戦してくれよう。その経帷子はお前が後から被って来い

静まれ。老人とはこうした過ちが多いものだ。それなのに助けもせず笑うとは何ごとか。許せぬ。笑っていた者は切腹いたせ

まとめ

今回は「前田 利家」の名言・名セリフ集をご紹介しました。

お気に入りの名言や心に響く名言は見る人によって変わります。

「前田 利家」の名言には、今回ご紹介していないものの中にも、まだまだ名言と呼ばれるものが数多く存在するでしょう。

ぜひ自分のお気に入りの名言を見つけてみてください。

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