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【中江兆民】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:好書好日

今回は有名な「中江兆民」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「中江兆民」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

中江兆民とは

中江 兆民(なかえ ちょうみん、1847年12月8日〈弘化4年11月1日〉- 明治34年〈1901年〉12月13日)は、日本の思想家、政治家。本名は中江 篤介(なかえ とくすけ)。自由民権運動の理論的指導者であり、第1回衆議院議員総選挙における当選者の一人。フランスの啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーを日本へ紹介したことから東洋のルソーと評される。

「兆民」は本名ではなく号であり、「億兆の民」の意味。「秋水(しゅうすい)」とも名乗り、弟子の幸徳秋水に譲渡している。また、他の号に「青陵」「木強生」がある。幼名は竹馬(ちくま)。

参考:Wikipedia

中江兆民の名言集

(来訪者が来ると)僕も横になるから、君もそうしたまえ

総ての病根此(日本に哲学がないこと)に在り

わしは儲けるためには詐欺と強盗以外なら何でもやるぞ

我々に授けられた憲法が果たしてどんなものか。玉か瓦か、まだその実を見るに及ばずして、まずその名に酔う。国民の愚かなるにして狂なる。何ぞ斯くの如きなるや

平民主義というのはまだ階級に未練がある。余はさらに下がって『新平民主義』である

(『社会契約論』について)人心決断ノ自由ヨリ見ヲ起シテ、以テ民主政治ノ最モ理ニ合スルコトヲ主張シ

剣をふるって風を斬れば、剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか。

(就任三日目に国会に出した辞職届)アルコール中毒のため、評決の議に加われかね候

たとい政治家が時と場所とをわきまえずに施政したために、いく千万の人間が禍いをこうむったとしても、その跡を吟味した学者はきっとこう言うでしょう。あれは、ああならざるを得ぬ理由があって、ああなったのだ、と。

ロシアと戦って勝てば大陸に飛躍できて大いに結構、負けてもそれによって国民が目覚めて藩閥政府が倒せるのだからそれも結構だ

(ガンで余命が一年半だと宣告されて)ほう、そんなに生きられますか。こりゃ寿命の豊作だ

笑うべしこの議長、悲しむべしこの議場、おそるべし将来の会

小生の目は自身のことに関しては、涙なき性分ですが、岩崎家の用意周到なる親切とその心をつくした勧説に対しては、不覚にも涙がこぼれました。ただ、一面識もなき、路上の行人同様の人より贈与を受けては、君子の道において穏当ならざるところあり、よだれを流しっつ、残念やせ我慢をはって御辞退申し上げる。ただ、貧乏書生の頑固を笑うべし

坂本龍馬の額が禿げあがってるのは、梅毒(女遊びのしすぎ)で髪が抜け落ちたから・・・

家の中で牛(息子の丑吉)や猿(姪の猿吉)がさわいでうるさい(と喜んでいた)

自由はとるべきものなり、もらうべき品にあらず。

それ商徳とも称すべきは機敏と信用と耐忍との三の者なり。

”オーイ、中江の兄さん。煙草を買うてきてオーセ”と(龍馬に)言われて、わしは喜んで買いに走ったもんさ

余は社会の最下層のさらにその下層におる種族にして、インドの「パリヤー」、ギリシャの「イロット」と同僚なる新平民にして、昔日公らの穢多と呼び倣わしたる人物なり

彼輩(かのはい)太(はなは)だ改革を好む、旧を棄(す)てて新を謀(はか)ることを好むに非(あら)ざるなり、唯(ただ)専ら改革することを好むなり、善悪倶(とも)に改革することを好むなり。破壊を好む、其(その)勇に類するが故なり

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