西暦2000年代の偉人

【藤波 辰爾】の名言集|名言まとめドットコム

あの引退試合の当日はそれほどでもなかったんですが、翌朝に目が覚めた時に『あぁ、もう長州がいないのか』と、寂しいような切ないような、いろんな感情がどっと押し寄せてきて......。かなり落ち込みました。あらためて、長州の存在が自分にとってどれほど大きかったのかを思い知らされました。

試合のあと、汗が出きってしまって、2日間、おしっこがでませんでした。(笑)

新日本ができたばかりのころの自分は、団体を家族と同じように考えていたので、毎日『早く大きくなってほしい。成長してほしい』と願っていました。だから、五輪に出場したアマレスの大物が入ると聞いて、『これで新日本の将来も安泰だ』と嬉しかったですよ

レスラーっていうのは、そういう意味では孤独ですよ。明日は友達でいられるか、わからない

自分がファンだった時に専門誌で見て憧れたすごい選手ばかりでね。その選手たちの邪魔にならないように部屋の片隅にカバンを置いて1人で準備をした。僕は、いつもボストンバッグの中に4、50センチ角のゴム板持っていった。それは、ブリッジをするためで、その時もブリッジや、スクワットをやって汗を流していたんだけど、向こうの選手は試合前にあまり練習しないから、他の選手は『こいつは、何をやっているんだ』っていう目で見ていた

天龍も元気になってきているようで安心している。「病院なんか入っているガラじゃないだろう、早く出てこいよ」と言いたい

試合の前には、猪木さんが負けたら引退という報道があって、ファンもこの試合にいろいろ感じていたんでしょう。あとで、映像を見たら、テレビカメラが追いかけていくときに、お客さんの悲壮な顔を映していた。あれじゃあ、もし、僕が買っていたら、暴動が起きてましたよ(笑)

長州が反逆したのは、何をやってもうまくいかないフラストレーションが溜まってのことだと思います。ただ、こっちからすればいい迷惑だった。あの頃の僕は、ジュニアヘビー級を卒業してヘビー級に転向したばかりで、進んでいく道にも理想があったんです。それを突然、長州が遮った。はっきり言って邪魔でしたよ。だから長州との試合では、そんなガチの憎しみの感情をそのままぶつけていました

アンドレは自分と対戦する時、どういうわけかリング上で手をもみながら喜んで試合をやっていました。小さな僕(183cm)を相手にすると、それまでやっていなかったいろんな動きが出せたりするから、楽しかったのかもしれませんね

プロレスラーだって、レコードが出せるんだ

僕が現役でやれているのは、今でも『プロレスで僕の人生が救われた』という思いがあるからだと思います。プロレスが自分の人生を切り開いてくれ、プロレスがあったからこそ、今も健康で生き続けているんだと。67歳になりましたが、入門する前のプロレスへの憧れや『好きだ』という気持ちは、まったく変わらないんです。いつまでリングに上がれるかはわかりません。でも、プロレスへの思い、ファンへの感謝を忘れずに、自分のプロレスを追求し続けたいと思います

(椎間板ヘルニアを患った際)自殺を考えるほどであった

フレアー戦でベルトを奪取していなければWWE殿堂入りは無かったかもしれない

(マスクマンに対して)お前!平田だろ!平田だろ!

楽しかった。次は三沢選手と戦いたい

あの時は、選手が離脱した馬場さんが心配になってどうしても顔が見たくなり、独断で試合前の控室を訪ねたんです。アポなしだったにもかかわらず、馬場さんは笑顔で迎え入れてくれました。僕は椎間板ヘルニアで長期欠場中だったので、逆に心配していただいたことを覚えています

(スープレックスの練習で後頭部を強打し続けた藤波は連日脳震盪を起こし)このままでは俺は技を憶える前に頭がおかしくなる

猪木さんと馬場さんが一緒に風呂に入る時は、猪木さんの付け人だった僕と、馬場さんの付け人だった佐藤昭雄さんも一緒に入りました。もちろん僕は猪木さんの背中を流すんですけど、ある日、馬場さんの背中を流したくなって、佐藤さんと入れ替わったことがあるんです。とにかく背中が大きすぎて、びっくりしましたよ(笑)

(ドラゴン・ストップについて)すっきりした攻防じゃなく、続けていたら看板選手が潰れてしまう、後味の悪い結果になっていただろう。だから自分が悪役になってでも止めたのだ。あの時の判断は今でも間違っていない

猪木さんと初めて会った時と同じように、馬場さんにも凄まじいオーラがあって、眩しかったですよ。体はもちろん、心も大きかったからそれだけのオーラを感じたんだと思います

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