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【岸 信介】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:首相官邸

今回は有名な「岸 信介」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「岸 信介」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

岸 信介とは

岸 信介(きし のぶすけ、1896年〈明治29年〉11月13日 - 1987年〈昭和62年〉8月7日)は、日本の政治家、官僚。旧姓佐藤(さとう)。

満州国総務庁次長、商工大臣(第24代)、衆議院議員(9期)、自由民主党幹事長(初代)、自由民主党総裁 (第3代) 、外務大臣(第86・87代)、内閣総理大臣臨時代理、内閣総理大臣(第56・57代)、皇學館大学総長 (第2代) などを歴任し、「昭和の妖怪」と呼ばれた。

参考:Wikipedia

岸 信介の名言集

第一はね、いうまでもなく安全保障ですよ。それがなけりゃあ、経済の発展も、あるいは文教の振興もない

悪運が強くないと政治家は駄目。運が七割

政治は力であり、金だ。

(安保反対のデモについて)デモに参加している人たちは必ずしも自分の意思で参加しているのではない。あれだけの数が集まるのは、日当をもらって出ている人や、背後にだれかがいてそれにおどらされているからだ。

私の政治方針は、汚職、暴力、貧乏の三悪を追放し、外交ではとくにアメリカとの恒久的な協力関係を深めたい。内政では経済の安定と均衡を保つ長期展望にたつ計画のもとで、持続性のある経済の発展による雇用の拡大を実現させたい

北一輝の『国家改造案(原理大綱)』が一つの大きな魅力でもあった

(憲法改正に関して)護憲の連中は憲法を改正するとまた戦争になり、徴兵制が敷かれ、子供や夫をまた戦場に送ることになるんだというような、訳の分からぬ宣伝をしている

日本をこんなに混乱に追いやった責任者の一人として、やはりもう一度政治家として日本の政治を立て直し、残りの生涯をかけてもどれくらいのことができるかわからないけれど、せめてこれならと見極めがつくようなことをやるのは務めではないか

私有財産の問題と国体維持の問題を分けて考えるというのは、その当時のわれわれの問題の基礎をなしていたんです。したがって、私有財産制の維持というものに対しては非常に強い疑問をもっていました

日豪両国は過去を忘れ、大きな筋において将来強い協力関係に入るべきだ

(外務大臣に藤山愛一郎を抜擢し)アジア外交のなかでも中共の問題をやってもらう

大東亜共栄圏は随分と批判があったけど、根本の考え方は間違っていません。日本が非常に野心を持ってナニしたように思われるけど、そうではなく…

ならばもう一度政治家となって再建の礎を築こう。大木になるまでは無理としても、苗木になるまでの日本をみたい

吾等は曾て世界に比類のない国民的結束と世界を驚倒する進歩発展を遂げた。仮令一敗地に塗れたとは云へ、此の国民的優秀性は依然として吾等の血に流れて居るのである。(中略)国民的矜持も国民の内省による国民的自覚の上に立つものである

侵略戦争というものもいるだろうけれど、われわれとしては追い詰められて戦わざるを得なかったという考え方をはっきり後世に残しておく必要がある

サイパン陥落に伴って今後本土空襲が繰り返されるであろうから軍需次官としての責任が果たせない

安保条約は、日本国民の多数によって日本の対米従属的地位の象徴として見られている。知らざる間に自動的に戦争に巻き込まれてしまう危惧を抱くこととなり、日本国民の戦争嫌悪感情と相まって安保条約反対の空気を強める結果となっている

誰もが若いときに傾倒するのだが、『資本論』は難しかったよ。一応は読みました

本当は総理をやってですよ、しばらく野に下って、今度は権力者としてではなく国民の側に立ってものを観察し、いろいろ思いを巡らしてこれを前の経験と結び合わせてもう一度総理をやった政治家は、前より大いに偉くなるんですよ。それを利用しないのは、国にとって非常に僕は非能率だと思うんだ

転ぶな、風邪を引くな、義理を欠け

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