西暦1900年代の偉人

【岡倉 天心】の名言集|名言まとめドットコム

禅が世に広まって以降、日本の美意識は、完成や重複といった左右対称の表現を避けてきた。

美しいものとともに生きてきた人だけが美しく死ぬことができる。

強力な思想というものは同時代の思想を論破するとともに、これに続く時代の動きを支配するものだ

面白いのは行為そのものではなくて、その行為にいたる経過だ。

絵に良い絵と悪い絵があるように茶にも良い茶と悪い茶があるのだ。しかし、完璧な茶をたてる唯一これだけというやり方があるわけではない。

芸術鑑賞に必要なのは心と心が共感し、通い合うことだが、そのためには、互いに謙譲の気持ちを持ち合わねばならない

本当の美しさは、不完全を心の中で完成させた人だけが見出すことができる。

宗教は未来を後ろ盾としているが、芸術では現在こそが永遠なのである。

自己中心的な虚栄というものは、芸術家、鑑賞者いずれの側であっても、共感を育むうえで致命的な障害となるのである

永遠とは、物質ではなく、精神にしか見出すことのできないものであって、こうした簡素な建物(茶室、数寄屋)はその精神のあらわれなのであり、そうであればこそ、洗練をきわめたほのかな輝きを帯びて、かくも美しいのだ

茶室、すなわち数寄屋は単なる小屋で、それ以上を望むものではない。・・・不完全の美学に捧げられ、故意に未完のままにしておいて、見る者の想像力によって完成させようとするがゆえに「数寄屋」である。

芸術は、その時代の暮らしにぴったりとしたものであって初めて本当に理解されるものなのだ

道教は儒教や仏教とはちがって、なげかわしいこの世の暮らしのうちにも美を見出そうとするのだ。酢の味見をする3人の者という宋のたとえ話は、見事に、これら3つの思想の特質を浮き彫りにしている。釈迦と孔子と老子の3人が酢の壺――人生の象徴――の前に立って、それぞれ指を浸しては味見していたが、実際家の孔子は酸っぱいと言い、仏陀は苦いと言い、老子ひとりが甘いと言ったというのである

見せびらかすのではなくて、ほのめかすといふこと、これが、無限なるものの秘訣なのだ

昔の賢者たちは決して体系的な形で教えを語ったりしなかった。彼らは好んで逆説的な言い方をしたが、それは生半可な理解を恐れたからである

ある時代なり流派なりの凡庸な産物をいくらたくさん集めるよりも、ただひとつの傑作に接する方がより多くのことを教えてくれる。

人生にせよ、芸術にせよ、これからさらに成長していく可能性があればこそ生き生きしたものとなるのだ

変化こそ唯一の永遠である。

花は人間のように臆病ではない。花によっては死を誇りとするものもある。日本の桜がそうで、彼らはいさぎよく風に身を任せるのである。

民族についても個人の場合と同様に、眞の進歩を構成するものは外部的知識の蓄積ではなくて、内部に存する自己の實現である。

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