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【真田 昌幸】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:上田市立博物館

今回は有名な「真田 昌幸」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「真田 昌幸」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

真田 昌幸とは

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。
甲斐国の武田信玄の家臣となり信濃先方衆となった地方領主真田氏の出自で、真田幸隆(幸綱)の三男。信玄・勝頼の2代に仕え、武田氏滅亡後に自立。織田信長の軍門に降り、滝川一益の与力となったが、本能寺の変後に再び自立し、近隣の北条氏や徳川氏、上杉氏との折衝を経て、豊臣政権下において所領を安堵された。上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退したことで、徳川家康を大いに恐れさせた逸話で知られるが、関ヶ原の戦いで西軍についたために改易された。
軍記物や講談、小説などに登場したことで、後世には戦国時代きっての知将・謀将としての人物像としてよく知られ、武田二十四将の一人にも数えられることがある真田幸隆の子。子に真田信之(上田藩初代藩主)、真田信繁(真田幸村)ほかがいる。

参考:Wikipedia

真田 昌幸の名言集

さすが本多忠勝の娘

(真田信之の重臣らに宛てた書状)書状を差し上げます。その訳は長谷寺が半分ほど破壊されたとのことであるから寺の造営を申し付けたいのでこのことを信之に申し上げ、造作については池甚次郎に申し付けてあるから話合うように。

此の方別儀なく候、御心安くべく候、但し此の一両年は年積もり候故、気根草臥れ候、万事此の方の儀察しあるべく候

(真田信之の重臣らに宛てた書状)現在は人を使うことがむずかしいので配慮するように。今時分遠慮なく申し付けかねることではあるが真田家一門の位牌所の寺であるから頼みいる。このくわしいことは池甚が申し上げる。

信玄公は敵を攻めて多くの城を取ったが、合戦に手を取る事なくして勝ちを取ったもので、敵に押しつけをした事は一度もない

(三成の使者に対し)かほどの大事を、前もって相談せぬことがあるものか

なんと肝っ玉の太い武士だろう。通してやらねばこちらの料簡の狭さになる。門を開けてやれ

(信幸と別れの対面し)さてもさても口惜しきかな。内府をこそ、このようにしてやろうと思ったのに

そなたは城内を通過したので、我が城内の様子を見ただろう。しかし様々な備えはあれど、それは城の本当の守りではない。真の守りは、城の大将の心の中にあるのだ

(届く報告は武田勢の敗報や謀反ばかりだったため)吾妻に下らないで、勝頼公のそばに居ればよかった。

たとえ錦(にしき)をきても、心が愚かならば役には立たない。刀も同じだ

沼田は弓矢に問うて切り取った土地。徳川殿からの頂戴した土地ではない。

(真田信之に宛てた手紙)この1、2年で急速に齢を とり、何をするにも根気がなくなり、ほんとう にくたびれてしまいました

(真田家存続のために、「犬伏の別れ」と呼ばれる父子の別れの際の言葉)我が真田家は今存亡のときを迎えておる。道を誤ってはならぬ。我らは二つに別れてそれぞれの道を歩むしかあるまい。どちらか生き残ればそれでよい。遺恨も後悔もあるまいぞ

思うようにいかぬのが、この世。 大事なのは、思うようにいかぬとき、いかに振舞うか。 源次郎、諦めてはなりません。 望みを捨てなかった者のみに、道は開ける。

わしは戦いには負けておらぬ。時代という化け物に負けたのだ

只兵法は譜代の臣を不憫がる、礼儀を乱さざることが軍法の要領

孫の顔が見たい

常に法度の多きは宜しからず

我あと三年生きれば、秀頼公に天下を献上す

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