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【北条政子】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:頼朝の妻北条政子

今回は有名な「北条政子」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「北条政子」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

北条政子とは

北条 政子(ほうじょう まさこ、旧字体:北條 政子、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻。

周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男・頼家、次男・実朝が相次いで暗殺された後は、傀儡将軍として京から招いた幼い藤原頼経の後見となって幕政の実権を握り、世に尼将軍と称された。

参考:Wikipedia

北条政子の名言集

景盛を討つならば、まずわたしに矢を射ろ

私が深山に隠棲して、流す涙のを不憫とは思いませんか。

私のあの時の愁いは今の静の心と同じです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません

尼ほど深い悲しみを持った者はこの世にいません

供たちの中でただ一人残った大臣殿(実朝)を失いこれでもう終わりだと思いました。尼一人が憂いの多いこの世に生きねばならないのか。淵瀬に身を投げようとさえ思い立ちました

今鎌倉は創設以来の危機です。

皆さん、心を一つにして聞きなさい。これが私からの最後の言葉です。

名声を大切にしようと思う者は、足利(藤原)秀康・三浦胤義を討ち取り、源氏三代の将軍(頼朝・頼家・実朝)が遺したものを最後まで守りなさい。ただし、後鳥羽上皇のもとに参ろうと思う者は、今すぐ申し出なさい

今度は、権大夫(弟の義時)が討たれることとなれば、五度目の悲しみを味わうことになってしまいます。「女人五障」とはこの事なのでしょうか。

大姫と頼朝が死んで自分も最期だと思ったが、自分まで死んでしまっては年端も行かぬ頼家が二人の親を失ってしまう。子供たちを見捨てることはできなかった

速やかに上洛せよ

しづやしづしずのをたまきをくり返し 昔を今になすよしもがな

武家の跡取が鹿を獲ったぐらい騒ぐことではない

吉野山峯の白雪ふみ分て 入りにし人の跡ぞ恋しき

而るに今逆臣の讒に依り非義の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代将軍の遺跡を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし。

故右大将軍(頼朝)が朝敵を征伐し、鎌倉に幕府を創って以来、官位といい、俸禄といい、その恩は山よりも高く、海よりも深いもの。感謝の気持ちは浅くないはず。しかしながら、反逆者が事実でない事を訴え、道理からはずれた院宣が発せられた。

今、皆が京方について鎌倉を攻めることは、大将殿(頼朝)と右大臣殿(実朝)の御墓所を馬の蹄に蹴らせるようなもの。御恩を受けた者がすることではありません。

(源義経の愛妾の静御前が頼朝の怒りを受けたときに、頼朝を宥めるべく政子が語った言葉)暗夜をさ迷い、雨をしのいで貴方の所にまいりました

皆心を一にして奉るべし。これ最期の詞なり。

私のあの時の悩みは今の静御前の心と同じなのです。義経の多年の愛を忘れて、恋慕しなければ貞女ではありません。

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