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【二宮 尊徳】の名言集|名言まとめドットコム

今回は有名な「二宮 尊徳」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「二宮 尊徳」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

二宮 尊徳とは

二宮 尊徳(にのみや たかのり)は、江戸時代後期の経世家、農政家、思想家である。自筆文書では金治郎(きんじろう)と署名している例が多いが、一般には「金次郎」と表記されることが多い。また、諱の「尊徳」は正確には「たかのり」と読むが、「そんとく」という読みで定着している。

経世済民を目指して報徳思想を唱え、報徳仕法と呼ばれる農村復興政策を指導した。

文政2年(1819年)、生まれたばかりの長男が夭折。家風に合わぬという口実で妻きのが離別を申し出たので、離縁した。翌年、34歳の金治郎は16歳のなみと再婚した。同年、忠真公が民間の建議を求めた際に、金治郎は貢米領収桝の改正を建言。これが採用されて斗量を改正した。また小田原藩士のための低利助貸法及び五常講を起こした。

参考:Wikipedia

二宮 尊徳の名言集

大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。それ小を積めば大となる。

速成を欲するのは、人情の常である。けれども成功、不成功には時期があり、小さい事柄でも、おいそれとは決まらない。まして大業ならばなおさらのことだ。

学問は、学んだことを活用してこそ意味がある。活用しなければ、幾ら沢山の本を読んだとしても、意味はない。

正しい道というものは、必ずこの世の人々に利益をもたらすものである。学問をする時も、修行をする時も、このことが実現できなければ、人の世には何の利益ももたらさない無用のものとなる。

道徳なき経済は犯罪であり、経済なき道徳は寝言である。

貧となり富となる。偶然にあらず、富も因て来る処あり、貧も因て来る処あり。人皆貨財は富者の処に集まると思へども然らず。節約なる処と勉強する所に集まるなり。

人々にはそれぞれ長所もあり、短所があるのは仕方がない。相手の長じているところを友として、劣っているところは友としてはいけない。人の短所を捨て、長所を友とするのだ。

すべての商売は、売りて喜び、買いて喜ぶようにすべし。売りて喜び買いて喜ばざるは道にあらず。貸借の道も、また貸して喜び、借りて喜ばざるは道にあらず。

善悪と言っても、天が決めたものではなく。結局、人間にとって便利かどうかだけの話である。

誠実にして、はじめてわざわいを福に変えることができる。術策は役に立たない。

キュウリを植えれば、キュウリと別のものが収穫できると思うな。人は自分の植えたものを収穫するのである。

貧富の違いは、分度を守るか失うかによる。

樹木を植えて、30年たたなければ材木にはならない。だからこそ後世のために木を植えるのだ。今日用いる材木は、昔の人が植えたものだとすれば、どうして後世の人のために植えないでよかろうか。

貧者は昨日のために今日働き、富者は明日のために今日働く。

世間一般の人の願望は、もとより遂げられるものではない。というのは、願っても叶わぬ事を願うからだ。

世の人はみんな金銭の少ないのを嫌って、ひたすら多いことを願うけれど、もしも金銭が銘々の願いどおりに多かったとしたら、砂や石となんの違いもない。

財貨は海のようなものだ。貧富、苦楽は、水を渡る術を知っているか、いないかにある。泳ぎの上手な者は水を得て楽しむし、泳ぎのへたな者は、水のために苦しんで溺れる。勤勉な者は財を得て富むし、勤勉にできない者は財のために苦しんで貧乏する。

世の中の人はみんな、聖人は無欲だと思っているが、そうではない。その実は大欲であって、正大なのだ。賢人がこれに次ぐもので、君子はそのまた次だ。凡夫のごときは、小欲のもっとも小なるものだ。

悪いことをした、やれまちがったと気づいても、改めなければしかたがない。世の中のことは、実行によらなければ事は成就しない。

生きているときは人で、死んで仏になると思っているのは間違いだ。生きて仏であるからこそ、死んで仏なのだろう。生きてサバの魚が、死んでカツオになる道理はない。林にあるときはマツで、切ったらスギになるという木はない。だから生前から仏であって、死んで仏になり、生前から神であって、死んで神なのだ。