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【下村 脩】の名言集|名言まとめドットコム

引用元:Chem-Station (ケムステ)

今回は有名な「下村 脩」の名言をまとめてみました。聞いたことのある名言から、こんな名言あったの?といったものまで数多く紹介します!誰もが知っている偉人「下村 脩」の名言・名セリフには、どんなものがあるのでしょうか?

下村 脩とは

下村 脩(しもむら おさむ、1928年(昭和3年)8月27日 - 2018年(平成30年)10月19日)は、生物学者(有機化学・海洋生物学)。学位は理学博士(名古屋大学、1960年)。ボストン大学名誉教授、ウッズホール海洋生物学研究所特別上席研究員、名古屋大学特別教授。

有機化学・海洋生物学を専門とする生物学者、中でも生物発光研究の先駆者であり第一人者。旧制長崎医科大学、名古屋大学、プリンストン大学、ボストン大学、ウッズホール海洋生物学研究所などに在籍し、発光生物についての研究を継続。その中の一つ、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質の発見は、その後生命科学、医学研究用の重要なツールに発展して2008年(平成20年)のノーベル化学賞受賞に結びついた。

参考:Wikipedia

下村 脩の名言集

私は普通以下の子供でした。どちらかと言えば記憶力は悪かった。身体も弱かった

研究者として、私は実験がうまいとも言われる。「神の手を持つ」などと神格化するようなことを言われたこともある。実際のところは、私は不器用で、実験は上手ではない。よく失敗する。ただ、簡単にはあきらめない

わたしがやったことは(受賞理由となった)緑色蛍光たんぱく質(GFP)を発見したことだけ。(共同受賞者の)チャルフィーがそれが役に立つものだということを見つけ、チェンが改良した。だから医学・生理学賞の対象だと思った

子どもたちにはどんどん興味を持ったことをやらせてあげて。やり始めたら、やめたらダメですよ

「ノーベル化学賞の成果となった、緑色蛍光たんぱく質(GFP)の発見までには、同じオワンクラゲからとれた発光たんぱく質のイクオリンや、それ以前に日本で取り組んだウミホタルのルシフェリンの研究が役立った。これらが成功裏に進んだのは、様々な幸運もあったし、巡り合わせが作用した

どんな難しいことでも、努力すればなんとかなる

これまで賞とか名誉に関心を持たなかったし、受賞の連絡を受けてからは対応に追われて忙しい

研究に専念するためには研究費用だけでは足りません。サラリーや大学の諸費用などですべてを賄(まかな)わなければならない。つまり私は自由と引き換えに厳しい「研究」という道を選んだのです

わたしは神を信じないが、天の導きだと思った。ノーベル賞も同じだ

受賞は天の導き

決まり文句みたいに『コングラチュレーション』と言われた後、『もうすぐマスコミが殺到して大変なことになりますよ』と言われた。その後は電話が鳴りっぱなし。その通りになった

結果が出ないのは努力が足りないからです

思わぬ偶然を引き寄せることができたのは、少しの失敗は気にせず、諦めずに努力したためである。試練には何度となく直面したが、私は逃げることは考えなかった。逃げることができなかったといってもいい

私の人生における最も強烈な光は、16歳の中校生のときに長崎に投下された原爆の閃光です。

科学の研究を始めたときからは、生物の放つ光に魅了され、ずっとこのテーマに取り組んできました。

私がGFPを発見したときには、実用的な意義はなにもありませんでした。私はなぜクラゲが光るのか、なぜこのタンパクが蛍光をはなつのかをただただ理解しようと研究をつづけました。

若い人たちが研究するときに、結論が初めからおよそわかるようなテーマをえり好みしたり、「応用」という報酬がほのかに見えるテーマに傾いてしまうことがあるのを私は心配しています。

よい研究題材の解明には、往々にして大きな困難をともないます。成功するためには、へこたれずにこの困難を突破してください。決してあきらめてはいけません。

長崎とそこでの学生生活が自分の原点であり、故郷である

何でわざわざアメリカ人に変わる必要があるの?日本人でもアメリカに住める。研究費を取るにも差別はなかったし、ほとんど不便は感じない

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